2012年2月13日月曜日

岡本でハッピーなバトンを次世代に手渡す



「一瞬にして小学校の半数以上の子どもたちが大津波によって海に飲み込まれた」などという言葉にするだけで気がめいるような事実を目の当たりにしたとき、僕らはいったい何のためにここに生きてどのように死んでいくのだろうかと空虚な心に苛まれる。





福岡伸一氏の著作によると、人間の遺伝子の中には「自由であれ」という命令が含まれているという。どうやら、人間という生き物は子孫を残すためだけに生きているわけではないらしい。遺伝子が利己的に子孫を残すために情報を送り込むのと同時に、子孫を残さないという自由意志をも人間に与えている。そのバランスであったり動的な平衡を保ちながら、人類という全体の存続を持続可能なものにしているともいえる。






人間には、もうひとつ。出来事の意味を考える、という才能を与えられている。出来事の事実の捉え方によって全く別の反応をできるという才能だ。遺伝子が「自由であれ」、と命令するなかには「滅ぶも生きるもお前次第だよ」という遺伝子の残酷なメッセージが含まれているようにも感じる。






俺ひとりには何もできない。俺には関係ない。と考えるか、未来から預かっているこの地球を未来のわが子たちにどう引き継ぐか。と考えるか。どちらも自由だ。ただ、「僕らはいったい何のために生きてどのように死んでいくのだろう」と、出来事の意味を考えたとき、僕は自分自身に対し命令したい。






「自由であれ。」 そこで初めて何者にも左右されない個が生まれる。僕はそう願いたい。






分断された地域、操作された消費行動、意味のない会議、愛のない人間関係。誰も望んではいないのにそれらのどれもが当たり前のように存在し、しかもとても不自由だ。自ら地域を興し、自ら選択し、上下関係なく意見を交わし、隣人・家族を愛し尊敬する。そんな自由が僕らに与えられていることに目を覚ましたい。






岡本ハッピーバトンでは色々な活動や表現が自発的にかつ同時多発的に行われ、しかもそれらが細かな糸で結び付き合っている。彼らが1ヶ月にわたってばらまくハッピーがより自由であることの大切さを教えてくれるし、誰にでも自由意志によるハッピーを享受できると教えてくれる。そして、人から享受したハッピーを子孫に受け継がせていくという自由も僕たちは持っているのだ、と確信する。






ありがとう&ハッピーバトン。

2012年2月9日木曜日

「モノ」と「ひと」と「ササヤマ」



丹波篠山の民家にたたずむナチュラルバックヤードの木の製品を見ていると、「モノ」と「ひと」の関係性について深く考えさせられる。

彼らがつくる木製品の素材は、SPF材といういわゆるパインやらスプルースやらの混合種でどこにでもありどこでも手に入る木材だ。様々な世界の樹種を見てきて、杢やカーリーがどうしたなどという趣の世界の人間からすれば、日曜大工で頑張っているお父さんが手にする程度の感覚でしかないだろう。

そんななんでもない材から繰り広げられる木のおもちゃや家具には、不思議な魅力がある。「質感」とでも言うべきものだろうか。直訳するといわゆる手触りなのだろうが、何か不思議な手触りがそこにある。そればサンドペーパーで磨かれた又は自然のオイルで丁寧に塗りこまれたようなものとプラスアルファーされた質感。

店頭販売であろうがワークショップであろうが、はたまたツイートからのネット販売であろうが、その不思議な質感は、その商品を手にする購入者に届けられる。商店街の八百屋や魚屋と主婦のおばちゃんとの間で繰り広げられるようなコミュニケーションのキャッチボール。そんな類の発信がナチュラルバックヤードでは交わされる。

つまり、作り手が自分が作っているものやそのプロセスについて、正しく誠実に伝える方法を持っているということだ。その工程が、商品の質感を際立たせているように感じる。

ものを右から左に流してアイダを抜くという商売の是非を問うているのではないが、ものをつくりそのストーリーを正しく受け手に伝えるということを日本人がどれだけ省いてきたかは明らかだ。機械化されたマーケティングシステムの中で好きでもないモノを消費者は買わされ続けてきたと言ってもいいかもしれない。

自分の目で見て、自分の手で質感を感じてモノを手にする。その使い方まで自分の手にすることによってそれは「ひと」へと受け継がれていく。僕らカホンプロジェクトもそんな団体でありたいと願う。

そして、僕らは彼らのもとへ、篠山へと越してゆきます。
兵庫県篠山市東岡屋31 手づくりカホンプロジェクト