2012年12月21日金曜日

マテリアルとしての木材

「木」と一言でいっても、森や林業からみた環境や資源、そして景観といった視点もあるし、いわゆるマテリアルとしての木材や建材としての視点もあるし、どっちの視点で木そのものについて考えるかによってとらえかたも違ってくる。
僕が今受講している木材コーディネーター養成講座は、それぞれの立場から異なる立場の基礎知識を学び理解する事で「木」という素材を俯瞰で眺める事ができる素晴らしい体験学習の場だ。

そんなことも相まって、自分の立ち位置である建築における「木」についての存在をもっと深く掘り下げたいという思いが強くなり、建築家さんの勉強会やトークショーに最近よくでかける。

先日、de-design-de で行われた倉方塾では、とても参考になるヒントをいくつか得る事ができた。倉方塾は、建築史家の倉方さんが毎回ゲストの建築家を招待して、様々な切り口から建築談義を行う面白い会だ。

今回は、大阪で活躍する高岡伸一さん。彼の建築家人生を追いながら、彼のしてきたこと、していることに切り込んでいく。ご存知の方もいるだろうが、高岡さんの近年の活動は、船場アートカフェやビルマニアカフェなど大阪の近代建築についての調査研究について活躍されており、その辺りの活動について掘り下げて話をされていた。

その話の中から僕は、今僕が考えていることまたは実践していることの共通点を感じ取り、とても参考になることが2つほどあった。

ひとつは、大阪というフィールドについて。僕の現在の思考から言えば地層とかレイヤーとかいう感じになるのだが、大阪という文化からなりたつ近代建築についてとでも言うべきだろうか。特に「大阪」という位置づけでお話をされていたが、高岡さんが扱う近代建築、特に中小規模の近代建築について言えば大阪というより「船場」という文化、地層からなる近代建築についての話であったかと思う。このへんは面白い所で、大阪と言っても上町台地西側の湿地帯に接する商人が息づいた船場と、その南側に接する四天王寺をとりまく千日前から西成界隈で、地層として残っている建築には顕著な文化の違いと役割が顔を覗かせていると僕は思う。その辺りの想像を膨らませてくれるお二人の話は大変関心深いものだった。

もうひとつは、僕の今の一番の関心ごとでもある建築における「木」というマテリアルの存在についての考察をより深みにさせられた点だ。
高岡さんは近代建築を研究し、その存在価値についてまたは「いいビル」とは何かをイベントなどを通じて広められているが、戦後高度成長時代のビルが決して「よくないビル」とは思わないとも言っておられた。もちろんそのとおりで100%納得するのだけれども、その端で、感覚的に戦後ビルまたは建築は面白みがなく、大正から昭和初期の近代建築に魅力を感じてしまうのには何かあるでのはないかと思うのだ。
そう考えていると、どうしても建築における「マテリアル」いわゆるケンザイ(建材)の存在を語らざるを得ないと思うのだ。

高度成長期において大量生産型かつ画一化されモジュール化されたケンザイが主流になり、石や木材といった自然の素材はそこからできるだけ排除されながら、コストダウンと施工性ための技術開発がなされてきた。それが今のケンザイ業界だ。
そうしたことがドコかで見た、ドコにでもある建築が溢れ、感性に訴える霊力をソギ落とされてきてしまったのではないかと僕は考える。これが本当だとすれば、建築家にとってはタマラナイ問題ではないだろうか。
これを僕の立場で言うなら「木」というマテリアルをモジュールの呪縛から解き放ってやって、かつオレは木だという誇示ではなく、凛として存在する粋な木の使い方ができるような新しいマテリアリズムというべき新境地をそこに見いだせないだろうか。

そして最後に、高岡さんが都市で繰り広げられているフィールドワークは、僕らの分野でいう「森」や「森林」においても活用できることを思いついた。
高岡さんの今やっていることを端的にまとめるこうなると言う。
 プライベートスペースを公開して「コモンズ化」する。
 パブリックスペースを占用して「コモンズ化」する。
あえてその真意を言わないけど、この社会実験はまさに「森」の中にでも活用すべきエッセンスが食い込まれているのだと納得したのだった。
あー面白かった。